概要

今回の読書会では、今までといささか趣向を変え、夢野久作を採り上げる。夢野久作といえば、ミステリ三大奇書1『ドグラ・マグラ』の作者として有名である。実際、今回の読書会で『ドグラ・マグラ』を採り上げようかと一度は考えたのだが、中々重たいので今回は短編集から数作を選ぶ形式とした。担当者の思惑としては、『ドグラ・マグラ』だけではない夢野久作の世界を紹介しつつも、その実『ドグラ・マグラ』を読むために、といった含みもある。

夢野久作について

探偵作家としての夢野久作は、1926年『新青年』2に「あやかしの鼓」を発表しデビューした。それ以前にも童話の執筆なども行っていたが、本格的な作家デビューは新青年である。1935年には『ドグラ・マグラ』を出版。1936年に来客中に急死する迄の十年間、幻想・怪奇風味に彩られた特異な作品群を残した。今回の読書会では、探偵小説という形式でありながらどこか歪な、久作の世界に触れてみたい。 今回の課題作の発表時期は、以下の通りである。

  • 1928年「瓶詰の地獄」『猟奇』10月号
  • 1928年「死後の恋」『新青年』10月号
  • 1929年「鉄鎚」『新青年』7月号
  • 1931年「一足お先に」『文学時代』2月〜4月号

課題作品について

「瓶詰の地獄」3

ボートが難破し、ふたり孤島に流されてきた兄妹。はじめは楽園のようだった孤島の生活も、二人が成長し肉体が成熟してくるに従って地獄の様相を呈してくる。どこまでも楽園的な環境とうらはらに、退けがたい誘惑にお互い身を責め苛まれながら、急転落下してゆく。聖書を教師に学んだと云う独特な漢字遣い、逆順に並べられた手紙が、次第に退化していくような何とも云えない余韻を残している。久作の作品では、このような書簡体のコラージュで構成された作品がよく見られる。

ところで、この瓶の順番に関しては幾つか異説もある。というのも、詳しくよむと小さな矛盾点が幾つか見付かると云うのだ。例えば、Wikipedia に挙げられている矛盾点を整理すると以下のようになる。

  1. 第一の手紙において、お父さまやお母さまが最初に出したビール瓶の手紙をみて助けに来た、という記述があるが、手紙の入ったビール瓶は三本とも封をされたまま、しかも同時に発見されたと冒頭の公文書にある。三本以外にビール瓶入りの手紙を海に流した可能性も無い。第二の手紙で太郎は、ビール瓶は三本しか持っていなかったと述べている。
  2. 第二の手紙で太郎は、一本のエンピツしか持っておらず、また、最後のほうで「鉛筆が無くなりかけていますから、もうあまり長く書かれません」と記述しているにもかかわらず、第一の手紙を書くことができたのはなぜか。

順番を考える上で手掛かりになりそうなところを列挙してみよう。

  • 島を訪れた時点での持ち物:一本の鉛筆、ナイフ、一冊のノートブック、一個のムシメガネ、水を入れた三本のビール瓶、一冊の新約聖書(第二の瓶より)
  • 第一の瓶よりも前に、少なくとも一回瓶を流している。
  • 第一の瓶の放流後、二人はフカの居る海に身投げする。
  • 第二の瓶よりも前に、少なくとも一回瓶を流している。
  • 第二の瓶の終わり時点で、エンピツの残りが少なくなっている。
  • 第二の瓶は太郎が書いたものであう。
  • 第三の瓶は連名である
    • 「イチカワアヤコ」「市川太郎」と云う漢字・カタカナの二つの署名がある事から、これは内容に眼を通してそれぞれ自署したと考えるのが妥当である。

これから確実に云えることは以下の通りだろう。

  • 鉛筆が一本であることから、同時に二人以上が手紙を書くことは出来ない。
    • 血を使うとか、樹皮に枝で無理矢理傷を付けるなりすれば書けるかもしれないが、あれほど複雑な漢字を書けるとも思えない。

以上を踏まえて、結局有り得る全ての順番を検討してみたい。

第一→第二→第三

第一が先頭に来ることは無い。これは瓶が三つだけであったこと、第一より前に瓶を流していることからの帰結である。

しかし、例えばビール瓶が後から増えたとするとどうだろうか?例えば海流の関係で戻ってきてしまったとか、遥か昔この島に漂着した人間が遺したビール瓶があったとか。 この順だとすると、エンピツの矛盾は解消される。第二で無くなりかけていても、あの短かさとカタカナであればギリギリ書けたとして不思議ではない。

しかし、第一の瓶で二人はこの後身投げをして死んでいる筈である。死ななくても、結局救助船が来てこちらに気付いているのだから、救出されるなりして第二、第三の手紙を書く機会は結局無くなるのではないだろうか。船が救出船でなかったとしても、こちらを視認しているし、ボートを出しているし、生きている二人を回収しないということはありえないだろう。

第一→第三→第二

上述と同様の議論により、これも却下される。また、第一で「死ぬ」と云っているのに第三で「タスケテクダサイ」と書いていると云う点で矛盾しているようにも思える。 では、手紙を書いている人間が第一と第三で違う人物であるとしたらどうか?第三の手紙は連名で、しかも名前がカタカナと漢字の二通りがあるので、少なくとも太郎が書いたものだと考えるのが妥当だろう(アヤコが書いたのなら両方カタカナになる筈である)。すると第一の手紙はアヤコが書いたことになるが、すると第三の瓶に連名で書いているところに矛盾が生じる(両方太郎が書いたのなら、名前も両方漢字になる)。つまり、結局この順番は有り得ないことになる。

第二→第一→第三

第二の瓶より前に少なくとも一度瓶を流しているので、こうだとすると第一の場合と同じように瓶が増えたという事になる。

最初の手紙があったとすれば鉛筆が減ってきていたも問題はないし、そもそもこれ以前に二人は読み書きの勉強をしているので、減っていてもおかしくない(例えば地面に書くだけで「背悖」といった単語が綺麗に書けるだろうか?)。しかし、これも第一→第三の流れで前述の部分と同様の矛盾が生ずるので却下されるべきだろう。

第二→第三→第一

では、第三→第一としてみる。鉛筆が少なかったのでカタカナで言葉少なに書いた、とすれば第三もよいし、その後暫く経ってから船に見付かり、最後の鉛筆を振り絞って遺書を書いたと考えれば平仄は合う。こうだとしてみると、瓶が増えたという仮定を認めれば、特に矛盾はない。よって、この順は一つ有り得る

第三→第一→第二

「救いの船が来た」「ボートが下ろされている」と云う表現が第一の瓶にある。ここで二人は崖から身を投げて死んでいる筈であり、死んでいなくとも船が来たからには救出されている筈である。また、その後に敢えて第二を書く理由が想定出来ない。

第三→第二→第一

これが最もオーソドックスな解釈である。この場合、最初に挙げた矛盾点が問題になってくるが、例えば未開封の謎については手紙を見付けたのではなく捜索の結果遂に見付けた、とすれば矛盾はない。そもそも「読んで助けにきた」と云うのは視点人物の推量でしかない。或いは、瓶が増えたとしても解決出来る。

この場合、特に問題になってくるのはエンピツの矛盾だろう。 更にもう一枚かくつもりで、それを踏まえた上でだったとすれば矛盾ではなくなる。「なくなりかけている」と書くかどうかは、この場合少し怪しいところではあって、この解決は若干怪しいところがあるが。

こうしてありうる順列を列挙して考えてみると、その度に違ったドラマが立ち上がってくる。 どの解釈を取っても、小さな所で矛盾が出て来て、決定が出来ない。 読者の脳内で、二人は数多の悲劇を何度もパターンを変えて繰り返し体験する。これこそが、天国のような地獄に囚われた二人の、精神の迷宮を読者に体験させる為の久作の企みだったのではないだろうか。

「死後の恋」

革命で軍隊に身を落とした語り手が、彼を呪っている「死後の恋」の奇跡を認めて貰うべく、ロシア駐箚日本軍の将校に自分の物語を語っている。久作の小説には、こうした語り体の作品も多い。初め同じ境遇の青年没落貴族と思っていた同僚が、実は処刑を逃がれ逃亡中のアナスタシヤ皇女であることが判明する。彼=彼女が自分の境遇を打ち明けたのは、自分に恋をしていたからだと結論し、それに気付かず宝石にばかり妄念を抱いていた自分を呪うことになる。「死後の恋」を他人に語るも受け容れられず今日まで来た──。

最後まで話を聴く者が現れ、遂に救われるかと思ったコルニコフだが、最終的には「話が本当らしくない」といって謝礼を受け取ることを拒否される。こうしてコルニコフは「死後の恋」から解放されることなく、この後も死ぬまでこの話をしては拒否されていく、という堂々巡りを続けていくことが示唆される。

ここにも、精神の迷宮に取り残され、心理的な呪いの中を反復する人間が描かれている。「死後の恋」と云うモチーフは、『ドグラ・マグラ』の主題を成す精神の遺伝のテーマに非常に近いところがある。

「鉄鎚」

《悪魔》をモチーフに、人生をどこまでも諦めきった主人公が、叔父とイナコとの奇妙な三角関係の渦中に巻き込まれていきながらも、全てを冷笑しきって自ら死んでゆく。全体的に立ち籠める倦怠感とシニシズム、そして自害を決心を何でもないかのように描き多くを語らない唐突な幕引き。この対比が、何とも云えない余韻を生み出し、「彼女の真実」に対して読者の想像を掻き立てている。こうした唐突な幕の引き方は、夢野久作の他の作品にも見られる特徴である。

伊奈子の恐しい死に顔を見た瞬間に、彼女の真実を知ったからであった。
眼に見えぬ鉄鎚で心臓をタタキ潰されたからであった。

こうして愛太郎を自殺を決意させた「彼女の真実」とは何だろうか? 愛太郎は伊奈子と共に宿泊したり、入浴したりしていて、身体や顔はよく見知っていた筈である。にもかかわらず、「恐しい死に顔」を見た瞬間に彼は「真実」に触れている。この「死に顔」と云うのは字義通り「死に顔」 なのか、それとも表現であって、伊奈子の亡骸の特徴を指すのか、と云うのは少し注意が必要かもしれない。

「真実」の正体として考えつくのは、大体以下のようなところではないだろうか。

  • イナコは本当に愛太郎の異父兄妹だった。
  • イナコは愛太郎の母だった。
  • イナコは憧れていた美人画ポスターの少女だった。
  • イナコが自分を愛していることに気がついた。

異父兄妹説について検討してみよう。手掛かりとして、中盤で叔父が語る伊奈子の出自を引用する。

「[…]お前の従兄弟で俺の姪なんだ。俺たちには、もう一人トヨ子という腹違いの妹があったんだが、俺達の両親も、お前の死んだ親父もそれを隠していたらしいんだ。そのトヨ子……つまりお前の叔母さんだね……それが生み残したのがこの友丸伊奈子という娘で、早くから母に別れていろいろと苦労をしたあげく、長崎の毛唐の病院の看護婦をしていたんだが[…]」

(角川文庫『瓶詰の地獄』P.141 より)

[…]K市の富豪友丸家の第二夫人で、まだ若くて美しかった彼女の母親は、伊奈子も誰も知らない正体不明の情夫から夫を毒殺された後に、自分自身もその男から受けた梅毒に脳を犯されて発狂してしまった。そうしていろいろな事を口走りはじめたので、その罪の発覚を恐れたらしい情夫は、ある真暗い晩に病室に忍び込んで、枕元の西洋手拭で絞殺すると同時に、一緒に寝ていた伊奈子を誘拐して行ったことがその頃の新聞に出ていた。あとの財産はどうなったか解らないが、多分親類たちが勝手に処分したものらしく、正体不明の犯人も、いまだに正体不明のままになっている……。

(同上、P.142 より)

この後、伊奈子の表情・仕種から主人公はこの与太は伊奈子の出自とは無関係であることを悟る。従って、伊奈子が「タネ違いの兄妹とも、従兄妹同士ともつかない異様な間柄」ではない、と云う結論が出そうだが、勿論伊奈子が一流の演技力でもって隠していた可能性も残るには残る。

他方で叔父が連れ去ったという、愛太郎の母についてはどうだろう。

[…]美しいばかりで知恵の足りない私の母親を連れてどこかへ夜逃げしてしまったというのである。[…]

(角川文庫『瓶詰の地獄』P.171 より)

[…]あとで考えると叔父は私の母を連れ出して散々オモチャにした揚句に、どこかへ売り飛ばすか、または人知れず殺すかどうかしたらしい……と思える節がないでもないが、しかしその時の私は顔も知らない母親の事なぞはテンデ問題にしていなかった。[…]

(角川文庫『瓶詰の地獄』P.121 より)

[…]この女はウッカリすると俺よりも年上だ。のみならず処女でもなければ令嬢でもない。叔父の妾になりにきた女なのだ。[…]

(角川文庫『瓶詰の地獄』P.144 より)

愛太郎母親の顔を知らなかった。その状態で伊奈子の死に顔を見て母だと直観することが出来るだろうか?自分の面影を見た可能性もあるし、「俺よりも年上」の本来の年齢が死に顔に出ていたのかもしれない。しかし、その後の伊奈子の立ち回りを見ていると「美しいばかりで知恵の足りない」と云った感じとは相反するようにも思える。

他方、ポスターの少女説はどうだろうか。

瓜ざね顔の上品な生え際と可愛らしい腮。ポーッとした眉。涼しい眼。白い高い鼻。そうして今にも……あたしは、あなたが大好きよ……と云い出しそうに微笑を含んだ口元までも、イキナリ吸い付きたいくらい美しかった。

(角川文庫『瓶詰の地獄』P.122 より)

という美人画の描写に対し、

それは二階の美人画とは全然正反対の風付きをした少女であったが […] 小男の叔父よりもすこし背が低くて、二重まぶたの大きな眼が純然たる茶色で、眉が非常に細長くて、まん丸い顔の下に今一つ丸まっちい腮が重なっていた。縮らした前髪を眉の上で剪り揃えたあとを左右に真二つに分けて、白い襟首の上にグルグル捲きを作って、大きな、色のいい翡翠のピンで止めたアンバイは支那婦人ソックリの感じであった

といった具合に、好対照として描かれている。この可能性はあまりないかもしれない。

最後の「イナコが自分を愛していることに気がついた」と云う可能性も、否定は出来ない代わりに、肯定も出来ない。また、そうと気付いたとして、愛太郎が死ぬ程の衝撃を受けるかどうか、と云うと少し怪しい気もする。

いずれにせよ、どの選択肢にしても決定打に欠ける。個人的には母説を推したいが、顔の問題もある。思い付いていない他の説の可能性もありえるだろう。伊奈子の「真実」は、こうして様々に考えることが出来る。

「一足お先に」

肉腫で失なった右足の悪夢、幽霊に魘される主人公。冒頭の「足の夢」の描写や、標本室の赤ん坊の描写などがいかにも久作らしい猟奇趣味と幻想に満ちている。副院長の告発から導入される犯行描写や、その後探偵と犯人のめまぐるしい反転も、実に酩酊的である。副院長に殴打されそうになる寸前になって、主人公は夢から醒めるが、それでも結局男爵夫人は殺されていて、どこまでが夢でどこまでが現実なのか、判然とせず終わる。

ここまで重層的に反転また反転を繰り返した結果、結局どこまでが真実でどこからが真実でないのか、どこからが夢でどこまでが夢でないのか。その境界は非常に曖昧になっている。或いは全く醒めていなくて、どこまでいっても「足の夢」の中であるような気さえしてくる。

最後跳ね起きた直後と、それ以前の描写で食い違っている事が幾つかある。

  • 起きた後では、副院長は犯行当時は夜通し別の患者を介抱していて病院にいなかった。
  • 副院長パートでは宝石は懐中ごと現場から持ち去られていたが、起きた後では胸の周囲に撒き散らされていた事になっている。
  • 起きた後は「麻酔をかけられていた」とあるだけで、看護婦が死んだ事に言及がない。
  • 副院長パートでは凶悪犯の犯行と目されていたが、起きた後では男爵夫人に恨みを持つ者の仕業と目されている。

特に副院長の不在は大きいだろう。この齟齬から、副院長パートと起きた後パートとの、少なくともどちらか一方は現実ではないことになる。しかし、以前の記述からは、どちらが本当でどちらが夢であるのか判断することは不可能であるように思われる。そもそも、疑って掛かろうとすれば、最初から夢の中であった可能性もある。

夢の中だ、と云って諦めるのではなく、では明らかに連続している範囲で真相を考えてみるとどうだろうか?といっても、起きた後のパートは手掛かりが少なすぎるので、副院長パートに絞ってみよう。主な解明シーンは以下のように進む。

  1. 副院長が男爵夫人の殺害犯人として主人公を指摘
  2. (主人公の犯行回想;一部記憶に欠落)
  3. 副院長が改めて夢中遊行中の犯行として指摘
  4. 副院長、更に「夢中遊行に見せ掛けた犯行」として喝破、恫喝
    1. 昼に標本室に忍び込んだのも下見のため。
  5. 主人公、催眠術で操られ犯行したと指摘
    1. 自分の知らないことまで知っているのはおかしい。
    2. 標本室のドアを開けておいたり、麻酔薬を置いておいたのも副院長
  6. 更に進めて、侵入して繃帯を切る以上の犯罪は全て副院長が行ったと指摘
  7. 本当は何もしておらず、催眠術で自分がやったと思い込ませたと指摘
  8. 副院長が杖で殴り掛かる。「助けてください」と叫ぼうとして、眼が醒める。

いずれの副院長が「見抜いた」という「三重の真相」は、外から付けた説明として一定の説得力を持っている。しかし、翻って主人公の三段階の「催眠術」は特にこれといって論拠がある訳ではなく、どんどん翻していくだけで、論理的には矛盾こそしていないが完全に破綻している。そして、極論どの説を採用したとしても、 真相として矛盾は出ない。こうして、結局夢の中も真相は決定出来ない。どこまでが主人公の意思で、どこからが副院長の恣意なのか。自己の内面と外部との境界が完全に曖昧になってしまっている。

そうして、眼が醒める。醒めた後の状況は互いに矛盾しあっていて、こちらの境界も曖昧だ。こんな具合に、この作品は、精神の迷宮が二重の入れ子構造になって読者を幻惑する。自分の意思と他者の意思、現実と夢の境界を侵犯していく、久作の真骨頂がここにある。

まとめ

夢野久作の作品の幾つかを紹介したが、いずれの作品も、一部探偵小説の形式を利用することで、人間の精神の迷宮を描きだそうとするような試みであった。ともすれば読者の注目は猟奇・幻想に偏りがちだが、丹念に張られた伏線やパーツを拾っていくことで様々な解釈を許すような作品もあり、或る種の後期クィーン的問題として、多重解決の本格ミステリ的な楽しみ方も出来る。のみならず、そうした行為によって、久作は読者を精神の迷宮へと誘うのだ。

「書けない探偵小説」で久作は、自らの理想の作品の着想を列挙した後、次のような文章で結んでいる。

何かと書いて来るうちに、お約束の六枚になった。ところで読返してみると、これが即ち探偵小説と申上げ得るものはタダの一つもない。みんな大人のお伽話みたいな心理描写ばっかりである。

……ハテナ……。

俺は一体、何を書きたがっているのだろう。

(夢野久作「書けない探偵小説」より。)

確かに、久作の作品には、今回の課題作や『ドグラ・マグラ』を含め、精神世界の袋小路に入ってしまうような、そんな作品が目立つ。以下は『ドグラ・マグラ』で作中人物の語る「絶対探偵小説」の理念である。

探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。犯人の脳髄と、探偵の脳髄とが、秘術をつくして鬼ゴッコや鼬ゴッコをやる。その間に生まれる色々な錯覚や、幻覚、倒錯観念の魅力でもって、読者のアタマを引っぱって行くのが、探偵小説の身上じゃないか。ねッ。そうだろう。

ところがだ。吾輩の探偵小説というのはソンナ有り触れた種類の筋書とは断然ダンチガイのシロモノなんだ。すなわち「脳髄ソノモノ」が「脳髄ソノモノ」を追っかけまわすという……宇宙間最高の絶対的科学探偵小説なんだ。

『ドグラ・マグラ』は久作のデビュー当時からの腹案であり、このような精神の堂々巡りを追い掛けていった小説と云うのは、最初期から一貫したテーマであったと云う訳だ。その一点のこだわりが、久作の特色であり、作品群を特異なものにしていると云える。あらゆる土着とあらゆる科学・理性の親である、精神の「謎」を解明する上で探偵小説と云う形式を、久作は選んだのだ。

そして、この試みの最高到達点こそが、『ドグラ・マグラ』である──というわけで、みなさん、是非『ドグラ・マグラ』を読みましょう。

参考文献


  1. 小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫『虚無への供物』の総称。「黒い水脈」とも呼ばれる。竹本健治『匣の中の失楽』を加え四大奇書と称することもある。↩︎

  2. 探偵小説を中心とした文芸誌。乱歩や横溝らが活躍し、数多くの探偵作家を輩出した。↩︎

  3. 「瓶詰地獄」と「瓶詰の地獄」の二通りの表記があるが、ここでは角川版に準拠した。↩︎


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