IT企業に勤める友人Sの話です。
Sは最近ベンチャー企業に転職をしたんですが、その会社、従業員数は数十人くらいでフルリモートなんですね。会社自体はもう十年以上続いていて、コロナ禍の前からリモートが基本で、日本中に従業員がいて、場合によっては海外に短期間滞在しながら仕事をしている人もいる。
リモート主体だと、必然的にチャットやオンライン会議、それから文書共有クラウドみたいなものを活用して仕事をすることになる。一昔前だと珍しかったですけど、コロナ禍ですっかりお馴染になったあれです。
その会社はそういうツールを使うノウハウがかなり蓄積されていて。
文書クラウドを使い倒して創業以来のあらゆる資料も、開発のチケットも──要は「ここ直してね」みたいなやつのことですが──、顧客対応の記録なんかも全部一つのサービスで一元管理してるんです。チャットサービスとの連携記録もあるので、社員間のやりとりの情報もそのサービスから参照できる。
IT業界っていうのは、他の業界に比べると入れ替わりの激しい業界ですが、友人の転職した会社は中でもかなり極端な方で、創業から現在までずっと残っているのは、もう社員の中でもほんの数人で、経営陣も創業当時のメンバーから全員入れ替わってるんだそうです。
それでも仕事がちゃんと回っているのは、文書クラウドにずっと集積されてきた情報や、リモートワークのノウハウの蓄積があるからなんですね。たとえばチャットではサイロ化や心理的安全性の観点から個人間のDMは原則非推奨だったり、帯域節約のためにカメラはオフが基本で、ハウリングを防ぐために発言中以外はマイクオフにしようとか。Sもフルリモートは初めてだったので、いい意味で色々カルチャーショックを受けたようです。
数年前までは、オンライン会議の議事録は、頑張って人間がリアルタイムで文字起こししていたそうなんですが、最近は大規模言語モデル──まあいわゆる「生成AI」ってやつですね──の発展で、その文書クラウドに自動文字起こし・議事録作成機能がついた。
使い方としては簡単で、参加者の一人が「録音」ボタンを押すと、パソコンの音声入出力をもとに文字起こしをはじめる。終わったら「終了」ボタンを押せば、やがて議事録ができあがるという寸法で。
この文字起こし君がかなり優秀で、人間が補助的に書いたメモと、AIが作成した生の文字起こしを照らし合わせて、かなり良い精度で会議の議事録を作成してくれるし、各自が担当することになったTODOの一覧なんかも自動で生成してくれる。 ボタン押した人のPCの音声入出力を使うので、オンライン会議自体は、その文書クラウドとは別のZoomとかGoogle Meet とか自由なものが使える、というのもいい。 そのかわり、生の文字起こし結果では発言者の情報が抜け落ちちゃってるんですが、自動生成される要約はそれでもかなり要を尽したものになってる。生の文字起こしが必要になることは稀だし、要約だけで十分便利だぞというので、出て来てから一瞬で社内に定着した。
AI文字起こしが導入されてから何日か経ったある日のことです。普段は要約しか見ないけど、そういえば生の文字起こしはどんなもんなんだろう、と文字起こしデータほうを覗いてみた。すると──
「この件についてはおだしょーえーと佐藤さんが金曜日までにあ金曜日はおだしょー別案件の定例があるのでではそしたら日曜日おだしょーに先方おだしょーへのヒアリングを基に要件をおだしょーまとめるということでおだしょーはいそれでおだしょー……」
……みたいな感じで、参加者の発言のベタ書きに混じって、「おだしょー」という単語が挟み込まれているんですね。
ああ、やっぱりAIは進化したといっても、まだまだ改善の余地あるんだなあ、と微笑ましい気持ちになった。それでもこのヘンなノイズが混じっている文字起こしから、文書クラウドに集積されたデータはあるにせよ、あの高精度な要約が得られるんだから技術の進歩というのはすごいなあ……。
──なんて考えながらSは、過去の他のAI議事録を開いてみて、おや、と思った。
「あー開いちゃだめだおだしょーおだしょー閉じました。これで大丈夫ですかねおだしょー」
「このイシューはこれでクローズおだしょーえ?あ、そっちのバグはまだおだしょー残っていや大丈夫おだしょーなのかじゃあそれでおだしょー」
……そんな感じで、過去の議事録にも沢山「おだしょー」が紛れ込んでいる議事録があった。全く挿入されない会議もあるんですが、すごい勢いで挿入されている会議もある。なんだか This Man みたいだなと思って笑い、まあ議事録が生成される段階ではノイズとして除外されているし問題はないだろう、そう思って一旦過去ログ漁りは切り上げた。
それから数日後。社のオンライン全体会議がお開きになって文字起こしが切られ、すぐに議事録が生成された。いつも便利だなあ、と思ってみていると最後のTODO一覧で「おだしょー:X社案件クロージング」というものが挙がっていた。 お、遂に議事録にもでてきた、と思ったSは、まだ繋ぎっぱなしにして雑談フェーズに入っていたので、「おだしょーが遂に表に出てきてますね」と何とはなしに話題に出した。
すると、オンライン雑談の声がピタッと止まった。突然の沈黙に戸惑っていると、社内では古株の同僚のQさんが「……Sさん、どうして知ってるの?」と訊ねる。「知っている……というか、なんかほら、文字起こしに時々出て来るじゃないですか。いつもは要約には出て来てないけど、TODOに載っちゃってるなって」「……ああ、本当だね。はは、AIもまだまだ発展途上だねえ」そう言いながらQさん、その項目をサッと消すと、何事もなかったかのように話を続ける「やっぱり最近のコーディングAIもかなり便利だけどちょっと劣化してきてるかなっていうタイミングもあるもんね。トークン足りなくなって下位モデルに切り替わると特にさ……みんなどうしてる?」そうして自然と技術雑談のような流れになって、数分後そのまま雑談は散会になった。
Qさんの態度に違和感を覚えながらSが作業に戻ろうとすると、今度は別の同僚・VさんからチャットでDMが届いた。
「いま、二人だけで通話できる?」
VさんもQさんと並んで数少ない古参の一人で、ムードメーカー的な立ち位置もあってオンライン会議の議事進行なんかもよく務めている。DMを避けてオープンな議論を心掛けましょう、ということを、口をすっぱくして言っている側のひとで。そんなVさんからの突然のDM、タイミング的にもただならぬものを感じてSさんは「はい」とだけ返信し、書かれていた会議用のURLにアクセスした。
そこでVさんが言うには──
「実は、創業メンバーのひとりに、おだしょーさんっていう人がいてね。すごく技術力のある人で、同じく初期メンのQさんとタッグを組んで今の礎を築いた一人なのね。中途で入った私もおだしょーさんに鍛えてもらって、やっと一人前になったようなところがあって……」
「その方は今……?」
「……私から聞いたって、言わないでね。……今から数年前なんだけど、X社の受注案件が大炎上していた時があって。その火消しにおだしょーさん駆り出されたんだけど……どうにか収めようとしたんだけど、もうどうにもならない段階だった。この案件、そもそも最初からおだしょーさんは現実的でないって反対していたんだけど、当時大企業からうちに引き抜かれてきてた役員の一人が強引に進めていたものだったんだよね。それで、最終的に技術的な課題は全部おだしょーさんのせいということにされてしまって。それで精神を病んで会社を辞めることになってしまって、そのまま行方知れずになって……だから、この会社では、おだしょーさんの事はタブーみたいになってるの」
Vさんはそう言って暫く黙り込んだ。音声通話だけだけれども、Sには悔しそうに唇を噛むVさんの姿が脳裡に浮かぶようだったそうです。
「……中核メンバーだったから、記録にも沢山残っていて、多分今回のはAIがその情報を拾っちゃったんだと思う。賢すぎるAIも考えものだね」
それからも暫く議事録には時折「おだしょー」が出続けていましたが、Sさんはもうそれ以上触れないようにしました。議事録の要約にはそれを最後に出て来なくなったので、意識には上ることも少なくなっていましたが、それでもどこか知ってはいけない秘密を知ってしまった居心地の悪さはしこりのように残りました。
まあそんなSも、面倒見の良いVさんのフォローもあって、次第にあまり気にしなくなっていったそうです。そのVさんも、つい数ヶ月前会社を退職し、Sは寂しそうでしたが、こんなことを言って今は前向きになっているようです。
「何でもVさん、パートナーと一緒に海外で起業するらしいんだよね。自分もVさんのお陰で、過去はどうあれ今この会社のために頑張るぞ、っていう気持ちになれたし。それに最近はもう文字起こしにも『おだしょー』はすっかり出て来なくなったし。AIの進歩ってすごいよね」