最後に書いたのが2018年06月14日なので、気付けば実に二年ぶりくらいのにっきであって、その間にはアクロバティックな博士号の取り方をして無事標準年限で修了したり、絶対に就活産業の世話になりたくねえ!と叫んで Twitter で就職したり東京に引っ越したりと色々あったのだけど、それを書くのはにっきの役割ではないのでにっきをかく。

二年ぶりににっきをかくきっかけは何かと言えば夢で、それは夜に見る夢であって、時制を正しうするなら夜に見た夢の話である。

夢というのは、なんだか良く見るな、というタイプの夢がある。そのなんだか良く見るな、の夢の中にも二通りあって、人生を通して良く見るな、という夢と、最近なんだか良く見るな、という夢だ。前者の夢の例を挙げると、それは知らない駅になっている品川駅で迷う夢であったり、その知らない品川駅から線路を歩いて渡ると高校に繋がる存在しない路線に乗れる夢であったりする。かつてなんだか良く見るな、だった夢というのもあって、これは空飛ぶ透明なサメが人々を襲って、家や学校の校庭などに現れる夢であったりする。このサメは「最終回」で私に倒されて二度と出て来なくなるのだが、この最終回を見たのは幼稚園の頃に住んで川の字になって眠っていた家だった気がするのだが、しかし記憶にある校庭の景色は引っ越した後の小学校のもので、いまいち判然としない。

閑話休題。今日の話は「最近良く見る夢」の延長であって、それは小学校に入り直す夢なのであった。

この夢は、博士を取って東京に出て来てから結構な頻度で見る。心理的には理解できて、「博士号を取る」という幼い頃に見た夢──これは将来の夢の方の夢で、幼稚園の頃は「バスの車内自動発券器が壊れていないか点検する人」「新聞記者」、小学校の頃は「数学者兼推理作家」、中学校の頃は「数学者兼推理作家兼俳優兼劇作家兼演出家」だった──という、ある種一つの目標を達し、その達し方がちょっと非標準的なものであったため、悔いはなくても何処かやりなおせるとしたら……という潜在意識がどこかにあるためだろう。

たとえば、昨日の──というのはもうすぐ一昨日の──夢では小学校に入学する謎のバスに乗っていて、私は今の年齢のままで、しかも生まれたばかりの弟がいた。今日の──というのはもうすぐ昨日の──夢はその続き、という訳ではなさそうだった。もうすぐ一昨日になるその夢では、入学するのは謎の私立学校で、私は義務教育と高校教育は普通の公立しか通ったことがないから、だからどうしても母校たり得るものではない。対して、もうすぐ昨日の夢の舞台は母校の校庭──かつて夢でサメを倒した、と信じているあの校庭──であったからだ。

その校庭で幼心に還りながら、それでも本当は大人の状態で、なぜか同じ小学校にいる今の職場の同僚と遊んでいる。同僚は身体中にロープを巻いてサッカーゴールに結わえつけて回って遊んでいて、私もそんなことをしているのだが、そんなことをしていると大人に怒られる訳である。この「大人」は、PTAの偉い人と先生が重ね合わさったような状態の人で、そんなことをしてはいけない、と窘められる。いつの間にか同僚はいなくなっていて(出番が終わったので)、どういう風向きか、子供の自己決定権に関する議論になる。その議論が終わって「大人」が校庭の裏門から消えると、何となく「今日は家に帰らずに、この校庭の朝礼台の横で一夜を過ごそう」と決意をする。

服などを抱えてかけ布団にして、そうして、夜になる。

ポケットには au のガラケーが入っている。黒でスタイリッシュに統一されたフタ付きのもので、たしか中学の時に使っていた機種だ。

そのガラケーにはさわらないで、空を見ている。

空を見ているのは本当は大人になっている自分なので、目はとても悪く、裸眼視力は0.1に満たない。にもかかわらず、空は澄みとおって、銀河の星の一粒一粒までも見通せる。その銀河の星々の織り成す輝きに、僕は目を奪われる。ほとんど見惚れている。

そうして、天体ショウが始まる。中空を埋め尽して七色のオーロラが踊り、それはさながら七つのベールの踊りのように幻惑する。そう思えば空全体の星が左から右、右から左と優しい原色の赤や緑が駆けてゆく。不意に色の乱舞はやんで、今度は夜空の恒星たちそのものが一つの調和を持って変幻自在の色に輝き瞬きつづける。

もし仮に私が神秘主義者であったなら、天啓を得たと大悟してしまうような、宇宙の調和と合一したのだと錯覚してしまうようなそれは絶景だった。

少なくとも、これまでに見てきた中で、これほどまでに鮮明な色彩を伴った夢はこれまでになかった事は確かだろう。普段見る夢は、モノクロームという訳ではないが、色は必要な時にだけ必要な場所にあり、それまでは概念そのものを気にする必要がないような、ほとんど脇役のような存在であることが殆んどだった。これほどまでに鮮かな光を放ち訴え掛けてくるような彩りは、これまでの夢には絶えてなかったと言ってよい。

夢見る私は夢中の私もろともこの天上の大花火の虜となった。と、思うや、一瞬にしてこの天体の奇蹟は、諸処方々から打ち上げられ夜空を埋め尽す本物の花火の群れと転じた。といって荘厳さや調和が失われた訳ではなく、その色の音曲乱舞は目とこころを楽しませて余りある、一種偉大さを湛えたものであった。

しかし、それが花火となったことで夢の私の行動も変わる。そういえば今日は花火大会だったかしらと打ち捨てていた携帯電話を手に取って、時間を確認する。もうこんな時間か、家に帰って家族といっしょに花火を見よう。そう思って私は、かけ布団がわりにしていたズボンを穿き(そんなものを布団にするな!)、靴を履いて、朝礼台の横の砂のベッドから起き上がると、家路を急いだ。


夢の話は以上。そういえば、このにっきはうたったうたを書くということでうたにっきと題されていた。今日は Queen をうたった。夜には昨日つくってあったハヤシライス(良い肉がお手頃だったので)にフェッチーネを入れてスープパスタに換装して食べた。